黒四ダムだった。
富山県が誇る黒4ダムということで
家族で2回とも楽しく見た。
黒四ダムというと
「黒部の太陽」
私たちの世代は。
世紀の難工事は
全国民にとっての誇りだと思うし
改めてすごい建造物だったということが分かりました。
タモリさんが
とても楽しそうで
見ている私までうれしくなってきました。
そういえば
以前
黒四ダムの語り部、
奥野義雄さんを取材させていただいたことを思い出した。
今から五年前
当時89歳の奥野さんは
本当にかくしゃくとしていらっしゃいました。
ブラタモリを見た方に
きっと今なら
楽しく読んでいただけると思うので
富山写真語 万華鏡、250号
「宇奈月のミュージアム」
の
聞き書き万華鏡を載せさせていただきます。
ちょっと長いけど暇だったら読んでね。
「くろよん」を語り継ぐ
黒四と環境
十月初旬、テレビに映し出される県内の紅葉の始まりは、黒部立山アルペンルートと黒部ダムと決まっている。山々と調和し、紅葉に映える美しいダムと放水される水は県を代表する絶景のひとつだ。
この黒四ダムも完成して来年ですでに五十年とのこと。世紀の大事業は数々のドラマになり、日本の経済成長のシンボルとして日本人を励まし続けてきた。
黒四伝説の語り部として、その心を伝え続ける元関西電力社員奥野義雄さん(八九歳)にお話を伺う。学徒動員を経て、関西電力に入社、工事完成までの7年間を現場で過ごし、土木技術者として工事の役所関係の許認可申請に関わり、監督官庁との折衝を一手に引き受けてきたキイパーソンのお一人だ。
「あの当時でも環境にはずいぶん気を遣いました。建設地は中部山岳国立公園の中ですからね。草一本抜くのにも申請書が必要だったんです」
発電所、変電所などの主要設備を地下式にし、掘削土砂はすべて観光客の目にふれない場所に運搬された。許可条件に、ダムからの観光放流があり、工事用道路があった。工事用道路はその後、国立公園の歩道として利用され、維持管理はそれ以来関電がずっと継続している。景観を損なわない最大限の努力が払われ、自然と人工物が調和した新たな美を生み出した。
「これだけの大工事をしながら、黒部の自然、風光が毀損されていないのはすごい」「日本人を見直す気になった」ダム竣工前年に、大佛次郎、川端康成を初めとした鎌倉文化人六人が黒四を訪れた時の感嘆と賞賛の声は、案内役を務めた奥野さんの耳に今も残る。
三十六㍍の攻防
関西電力の当時の資本金は百三十五億円、三百七十億円のダム総工費(最終総工費は五百十三億円)は社運を懸けた決断だったが、そのために、世界銀行からの三千七百万㌦(百三十三億二千万円)の融資に成功したことも特筆すべきことと奥野さんは語る。
世界銀行は全世界の大きなプロジェクトに融資し、それぞれの専門分野に権威者を揃えていた。昭和三十五年五月、同銀行技術権威者達が黒部ダムの現地視察に訪れる。前年、同様に融資したフランスのマルパッセダムが崩壊し多数の死者を出したことから、黒部ダムの高さ百八十六㍍の強度検証するためだ。視察を終えた顧問団は、強度の不安からダムの高さを百五十㍍に下げるよう提案する。高さを下げたくないが、世界銀行へ答えを持っていく為の猶予は三ヶ月しかない。
「岩盤テストの機械がフランスにしかなかったのですが、通常の手続きだと六ヶ月かかるところを、副社長の英断で、当時としては異例ですが、飛行機をチャーターし取り寄せることになったのです」
取り寄せた機械での岩盤テストで強度が再評価され、その結果を引っ提げ、ワシントン本店での会議に平井寛一郎副社長を始めとした三人が臨んだ。
「副社長のスピーチは英語で行われました。『関西電力は黒部ダムを計画通りの高さで作り上げる案を携行しました。世界銀行と言えども銀行に違いなく、計画水位を低くして発電所の採算が悪くなり、それだけ借入金返済の困難が増えるような勧告をお出しになるのは筋がおかしいのではないでしょうか。如何にすればダムの高さを下げずに済むかについて権威者の皆様からお知恵を賜るのが本来の姿であり、そうして頂ければ幸い、これに優るものはございません』並み居る諸公が一斉に席を立ち、拍手でこの演説を迎え入れ、かつそれに沿った議決が行われたのです」
「何よりも、日本経済復興のためのエネルギーを必要としていたので、高さを死守したことは国家的にも偉業と言えるでしょう」
定年後、依頼を受け黒四の歴史を本にまとめたことからその内容が注目され、講演依頼が舞い込む。平成十一年以来講演回数は七〇回を超える。年号や数字を間違(まご)うことなくお話しになる矍鑠(かくしゃく)とした姿は、年をとることをずっと以前にお忘れになったかのようだ。
くろよんを語り継ぐ為の天の采配なのだろう。